これからの社会をうまく生きるために、自立と自律のアンビバレントを受け入れよう(自律と禅)

人間社会では、自立が尊ばれる。

意識のある生き物の頂点に立つ人間はその歴史において、社会の中で自立することが求められた。

人間として生きるあたっては、自立して生きていくことができれば喜びになるし、自立するために能力を高めていくことが命題になる。

しかし自立できないことや、いずれは自立できなくなっていくことから、人間の苦しみもまた生じているのだ。

自立と意識

自立とはなにかといえば、つまり意識である。

意識をもたない植物は、社会を形成することもなければ、自立について考えることもない。

土に根を張り、光合成をして、そこにはなんら明確な意識はないものの、生きている。

喜びがないかわりに、苦しみもないのだが、では植物はなぜ生きているのかというと、自立ではなく、自律によって生きているのである。

人間にも「植物状態」という言葉があるが、意識はなくても爪や髪は伸びるし、呼吸をして、成長や老化はする。

自律神経は、人間の意志でコントロールすることができない。

われわれは意志のチカラで体温を上げたり下げたりすることができないし、寝ている間に深呼吸することもできない。

これらは、人間が本来は「意志(自立)ではなく自律によって生きている」からだ。

意識は、人間が自律的に生きるための補助の役割をしているにすぎない。

動物は植物のように土に根っこを生やしたり、光合成ができないので、食べ物を探したり、生殖の相手をみつけるために、意識を利用しなければならない。

動物は、自律して生きる補助として、意識を利用する。

しかし人間の場合は、意識のレベルがほかの動物と比べて段違いにすぐれているので、単に生きることの補助という次元を超えて、自立していることが生きているということになってしまった。

ここに勘違いが生まれて、仏教でいうところの生老病死の苦しみにさいなまれるようになるのだ。

人間はじぶんが社会的に自立して生きていることを、イコール生きていることのすべてと置き換えてしまう。

だから、社会的にうまく生きていけないと、それを恥ずかしくおもったり、苦しんだりして、場合によっては自死を選んだりする。

動物という見方で考えると、これほど本末転倒なことはない。

自律を生きる

人間は社会性が発達しすぎたために、社会的に自立することが、肉体の自律を越えねばならないという勘違いを犯してしまう。

たとえば、「武士道とは死ぬこととみつけたり」というが、武士はじぶんの名誉やお家のためにじぶんの腹を切って死んでしまう。

ふつうの生き物は決してそんなことをしない。

これは、人間という生き物の意識による自立が、自律を無理やり制御して、優位であることを証明しようとして起こる。

「自立 > 自律」という、本来の生き物としては不自然な状態を当たり前だとおもうことによって、人間は社会的生物として確固たる地位を築いたのだが、同時にたいへんな苦しみを背負ったのだ。

自立と苦しみ

じぶんが老いて、そのうち社会的になにもできなくなってしまうのではないか、という苦しみ。

社会でお金を稼ぐことができなくて、迷惑をかけているという苦しみ。

病気やけがによって社会でじゅうぶんな働きができなくなるという苦しみ。

むかしはさらに、女性が男の子を出産できなかったというだけで、社会や家族に申し訳がないといって苦しんでいたことさえあった。

これらは本来、動物が抱える必要のない苦しみであり、自立が自律を凌駕した人間ならではの苦しみである。

ほんとうは、ただ自律のおもむくままに呼吸して、日々の糧を得て、生きていればいいだけのことなのだが、もはや人間の意識はそんな動物レベルの暮らしを許さない。

ぼくは、ただ自律に任せて生きていられればどれだけよかろうと考えながらも、同時に人間として生きる以上、そんなことは許されないし、そんな退屈な生き方ができようはずがないことを知っている。

つまり、この社会に生まれ落ちた以上、必然的に人間は自立して生きるほかない。

われわれは生まれ落ちた瞬間から出生届を出されて、番号をつけられ、社会に対する義務と責任を負って生きていくのである。

しかし、どんなに社会性をもって生きようとも、人間は結局は動物としての人間でもある。

人間の心の中に住まう自律と自立を理解しておいて、いざじぶんが苦しんでいるときに、「ああ、これは自立による苦しみだな」ということがわかっていれば、じぶんがたとえ社会的にうまく生きていけなくても、それによって自律を止めねばならぬほど苦しまなくたっていいのだ、ともおもえるはずだ。

禅と自立

たとえば仏教の禅宗は、自立の部分をとことんまで削り取って、自律の比率を増やそうとする。

すなわち座禅であり、日常生活を厳しく律する、あの禅寺の態度だ。

禅宗の偶像として知られる寒山と拾得のたとえ話もそうだが、かれらは意識による自立を虚構であると喝破して、みずから乞食僧として自律的に生きている。

上座や下座という考え方や、仏教における仏の地位、こういったものを、すべて理解しているにもかかわらず、乗っかろうとしない。

人間は、人間として生きる以上、上座や下座をつくらなければ具合がわるいこともあるし、地位を設けておいたほうがものごとはスムーズに動くものだ。

しかしそういう上下関係、ヒエラルキーによって苦しみが生じても、それが人間として生きる自律を犯すほどでなくてもいい。

われわれの心には、自立と自律という、一見水と油のようなアンビバレント(感情の相反)があるのだが、これらはどちらかでなければならないというものではない。

つまり武士道のように、自立によって生きなければならない、という極端なものではないのである。

現代になって加速度的に管理社会化がすすめられているが、われわれは必ずしも社会的に生きられなくても、人間として自律して生きていることを忘れてはならない。

意識によって自立して生きることも大事だが、そういった能力が失われても、自律して生きていることもまた大事なことなんだ、という清濁併せ呑むような生き方が、近代社会、そしてこれからの社会では特に必要になるはずだ。

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