都市としての仙台と、佐治敬三の東北熊襲発言

1988年、当時のサントリーの社長であり、大阪商工会議所の会頭だった佐治敬三が、東北は熊襲(くまそ)の産地で、文化程度も極めて低いと発言し、大騒ぎになった。

仙台遷都などアホなことを考えている人がいるそうだけど、北になんぼ住んでいるか知らないが、だいたい熊襲の産地、文化程度も極めて低い。

現代風にいえば大炎上である。山火事のように燃え広がって、東北ではサントリーの不買運動、スポンサーの停止、あげく衆議院予算委員会での質疑にまで至る。

しかし、佐治敬三はなぜこのようなうかつなことをしゃべったのだろう。

ごくカンタンにいえば、森を見て木を見ずというか、大局観だけでものごとを判断しているから、こういう乱雑な解釈を口にするようになる。

しかし、ではなぜこんな乱雑な解釈をするのだろう。

そもそも熊襲とは九州の南側にいた気性の激しい豪族である。東北とは関係がない。

蝦夷(えみし)と勘違いしたのだろう。

蝦夷は古代日本の東北地方の一帯に分布していた集団だった。

が、明確な文化や歴史の違いによってそう名付けられたのではなく、「朝廷の支配に反逆する者」というような意味合いである。

朝廷側が「東北あたりで朝廷に仇をなす者」に蝦夷というレッテルを貼ったわけだ。

かれらは国家を形成していたわけではないが、8世紀ごろに阿弖流為(アテルイ)という頭領がいたことからもわかるように、組織的な社会集団であった。

蝦夷はいまの日本にはいない。

その血は日本に溶け込んでいる。

それを純血思想とステレオタイプで批判すると、佐治敬三のようになるわけだ。

しかし熊襲と蝦夷をまちがうのみならず、明確な偏見を人前で口にしてしまうというのは、あまりにもうかつである。

佐治敬三についての国会質疑で、当時の奥野国務大臣は、関西人である佐治敬三は首都を関西にとおもうあまりに口をすべらせたのではないか、とフォローしていた。

関西と東北は仲がわるい?

たとえば戊辰戦争による恨みで、福島の特に会津地方の人たちは薩摩(鹿児島)や長州(山口)を敵視しているという。

そのような歴史的経緯から、世代を超えて続く憎悪が、関西と東北にもあるというのだろうか。

しらべてみたのだが、関西にも東北にもお互いが憎みあうべき歴史的事件は見当たらない。

たとえば阿弖流為の処刑された地が大阪であったというようなことは、現代にまで続く因縁の原因になりうるだろうか。

さすがにそこまでこだわる人がいるとはおもえない。

世間的にはもっと表層的な、たとえば東北人はおとなしく、関西人はやかましいので、性格が合わないというような意見が幅を利かせているようだ。

しかし、まさに佐治敬三の仙台熊襲発言のせいで、仙台の人々に強い関西嫌悪が生まれたのはまちがいないだろう。

かれの発言が1988年のものだったことを考えると、まだとても悪印象が払拭できる年月が経ったとはおもえない。

案外東北と関西の仲がわるいというのも、佐治敬三から派生したうわさなのではないかという気がしてきた。

関西人のだれもが佐治敬三のような考え方をもっているわけではないのと同様に、仙台の人のすべてが関西人を嫌いというわけでもないはずなのだが、いったん生まれてしまったステレオタイプはなかなか抜けないのである。

仙台について取り上げたかった

ほんとうは、きょうは宮城県仙台の話をしたかったのだが、最初に佐治敬三の舌禍事件をとりあげたのがよくなかった。

仙台は実際、やろうとおもえば有事の首都機能移転を請け負えるだけの大都市であるとおもう。

都市はなんの理由もなく発展するわけではない。

最大の功労者はやはり伊達政宗で、現代の発展の礎となる都市整備をおこなった。

これがなければ、明治に入って東北開発のターミナルにはなりえなかっただろう。

東北地方の中では雪などの天災が少なく、東京からのアクセスを考えても有利である。

東京とおなじ太平洋側の都市であり、機能を分散させる際の無理が比較的すくない。

先の震災をどう考えるかはむずかしいのだが、日本においてどれほど有利な平野部や都市部でも地震リスクはつきものであり、東京でも大震災はあった。

山陰なら……とおもうかもしれないが、やはり大陸の脅威を考えれば、山陽の平野部を選ぶのが穏当だろう。

個人的に仙台は不思議な魅力をもつ都市だとおもっているが、今回はうまくまとまらなかったので、次の機会にゆっくり掘り下げて考えよう。

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