稚内市を調べていくうちに、宮沢賢治にたどりついた話

市の面積

稚内市は日本最北端の町で、市街地が北西の海べりにある。

市街地の面積はおよそ19平方キロメートルで、人口は3万人ほど。

東京の渋谷区の面積がおよそ15平方キロメートルで人口が22万人ということを考えると、地図でみるよりものんびりしている。

のんびりしているといっても、市内に暮らす人々には危機感もあろう。

稚内市もやはり、多くの自治体とおなじように人口減少が著しい。

人間がいなければ、なにをするのもむずかしくなる。

特に、子供がいなければ需要は生まれにくい。

大人はたいていのことに辛抱がきくが、子供のためをおもえばこそ、あれを買ってやりたい、これをしてやりたいという需要が生まれるからだ。

市街地に比べて、稚内市の面積は761.5平方キロメートルと広く、そのほとんどが山林であり、田畑と牧場が点々としている。

ちなみに東京23区の面積が622平方キロメートルであるから、稚内市内全体でいえば、東京23区をすっぽり飲み込んでゆとりがある広さだ。

このあたりはよい風が吹くらしく、市内全体の2倍以上の電力を風力発電でまかなえているという。

市内の道路

鉄道だと宗谷本線、国道も市街地に向けて走っている。

このラインが市の大動脈といえよう。

市内の東部にも海岸沿いに国道が走っているのだが、西と東の国道は直線距離で20km以上へだたっていた。

市内の西部と東部をつなぐかたちで道道はあちこちにあるのだが、主要地方道は市内南部で合流している。

この合流地点に沼川という町がある。

人口は200人ほどと少ないのだが、郵便局も食堂もスーパーマーケットも公園もそろうコミュニティである。

酪農の盛んな地域らしい乳牛感謝の碑なる建造物も確認できる。

地図をみている限り、沼川を起点に市内を道道が放射状に延びていて、道路だけをみていると、ここが市内の中心地のようにもおもえるほどだ。

宗谷岬

北海道最北端というと宗谷岬というイメージがあるが、このあたりも港湾部が町になっている。

人口は505人とある。

先ほどの沼川もそうだが、人口がこれだけ少ないと、本州の中山間部の過疎地域のように、町の人々はお互いをあらかた知っているのだろうか。

それとも人口が少なくとも、マップをみていると近代的な区画整備がされているようだから、人々の付き合いは都市的で疎遠なのだろうか。

さすがに市街地のように何万人もいれば密な付き合いはないだろうが、500人くらいならだいたいの顔を知っているということもありそうだ。

宮沢賢治と異界としての宗谷岬

市街地を東へ抜けてしばらくいくと、日本の最北端、宗谷岬である。

宗谷岬から北へ直線40kmほどいけば、樺太の西能登呂岬に行きつく。

現地ではクリリオン岬と呼ばれているそうだ。

宗谷岬には多くの施設や慰霊碑がある。

国境を隔てる場所として、さまざまな物語のある場所だ。

古くはロシアに対する防衛の要として、太平洋戦争中には米海軍とも戦いが繰り広げられている。

戦争がなければ、ここは多文化交流の地のはずだが、どこか浮世離れした場所のようにもおもえる。

「宮沢賢治文学碑」は、この宗谷岬のもつ独特な空気を物語るようだ。

宮沢賢治と宗谷岬

岩手県花巻に生きた宮沢賢治は、最愛の妹トシの死を看取り『永訣の朝』という詩集をつくった。

そしてトシの死から1年経った1923年(大正12年)8月、賢治は稚内へ向かい連絡船に乗って宗谷海峡から樺太へ向かっている。

夏休みを利用して花巻農学校の生徒たちの就職先を探すという名目だったが、賢治は亡くなったトシとの精神的な対話を試みていたようだ。

賢治が著した『宗谷挽歌』における宗谷海峡の描き方は、まるで彼岸(樺太)と此岸(宗谷岬)をへだてる三途の川のようである。

かれは死ぬつもりはなかったが、もしトシがそれを求めるのであれば、あるいはじぶんたちの信じていた道(法華経による信仰の道であろう)が間違いだというのなら、この海に沈んでも構わないとさえいう。

海峡を渡って、未知の開拓地へ訪れようとするときの心情を、かれはこのように描いた。

海峡を越えて行かうとしたら、(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或いは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
紫いろのうすものを着て
まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一緒に行ってやらないだらう。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

賢治にとって、宗谷岬はいわば魂との出会いを予感させるような「異界への入り口」だったのではないか。

現代でも、盂蘭盆会(お盆)には死者の魂が帰ってくるという考えは全国で浸透しているが、賢治の生きた大正時代では、たとえば恐山のイタコのように、死者が帰ってくるというようなシャーマニズムは、より身近なものだった。

死者は海から帰ってくると考えられていたり、風に乗って帰ってくるともいわれた。

魂が空へ向かうという考え方のように、北へ向かうという考え方もあったようだ。

もちろん賢治がこういった伝説を鵜呑みにしていたわけではないだろうが、日本という国を此岸に見立てて、樺太を彼岸とし、北へ向かうトシの魂を追っていく。

そのような予感を抱きながら、信仰心の強い賢治が北の海へ向かったと考えるのは、不思議なことではない。

宗谷岬には、そんなスピリチュアルな魅力もあるようだ。

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