京アニ放火事件における死刑判決と松本人志問題を、森鴎外の『かのように』で考える

森鴎外が『かのように』を発表したのは明治45年(1912年)である。

この作品は、いわば当時の処世術とでもいうべき作品で、日露戦争から7年、太平洋戦争を30年後に控えた微妙な時期において、かなりきわどいことを書いていた。

今回はこの作品について説明をしたうえで、時事的な話をしようとおもう。

「かのように」とはなにか

科学的に考えれば、世の中に神様はいないのである。

しかし歴史という学問においては、神様はいないと断言できるだろうか。

たとえば数学には点や線という概念があるが、実際に点や線があるわけではない。

数学をやるうえで、この座標に点や線があると仮定しておかないと、理解がしづらいから、点や線がある「かのように」考えるわけである。

歴史もおなじで、神様がほんとうにいるわけではないのだが、日本史だと天皇が日本神話の系譜に連なるという以上、神様がいると仮定しないと理解がむずかしい。

しかし、高天原の神話を日本の歴史をつなげてしまうのは、やはり科学的にはウソなのである。

ではその場合、歴史学者は神をどう取り扱えばいいのか。

鴎外はこの歴史学者のジレンマを取り上げているのである。

天皇は神なのか

ほんとうのことを書くのであれば、「神はいない」といわねばならない。

しかし、神がいるというのは社会の常識であり、神がいないなどといえば、世間から白い目でみられるばかりではなく、あの時代だと取り締まられるのである。

明治になると、日本では天皇が現人神で、ほかのどんな神仏をも凌駕する存在として扱われるようになった。

突然そんなことになったことに反発して、「そんなわけはないだろう」という輩もいたのだが、そういう人は危険思想の持ち主として取り締まられることになる。

ふつうに暮らしているぶんには、天皇が神様といわれたら、よくわからないがじぶんには関係ないのだし、御意にしたがう、と言っておけばいい。

そんなことは、わざわざむずかしく考える必要はあるまい、と多くの人はおもっている。

しかし歴史学者のように、ほんとうのことを書かねばならない立場の人は、どうすればいいのか。

そこで結論としては、神様がいるとみんなが考えている以上、つまりそれが世間一般の常識である以上、いちおう神がいる「かのように」考えるしかあるまい、というわけだ。

京アニ放火事件と「かのように」

2024年1月、京アニ放火事件の犯人が死刑を宣告された。

事件の詳細をみていると、あの犯人は統合失調症の可能性があるというのだが、司法は責任能力があったという。

もし犯人が統合失調症などで精神的に錯乱していて、責任能力がない状態だった場合は、法律上罪に問うことができない。

しかし私怨で建物に火をつけ、36人を死亡させ、32人に重軽傷を負わせた大事件である。

どんな事情であれ、犯人を罪に問わないという決断はできないだろう。

そうなると、犯人がどんな状態であったにせよ、責任能力があった「かのように」みなして、死刑にするほかない。

もし犯人が心神耗弱だから無罪だということになると、社会が司法を一斉にバッシングし、収拾がつかなくなるはずだ。

もちろん、犯人に責任能力があるかどうかなんて判断はむずかしいし、どうとでもできるといえばできる。

オウムの麻原だって、実際のところ責任能力があったのかどうかはわからないが、死刑になったではないか。

常識という名の宗教

現代は科学や論理の時代だが、じつは社会には常識という名前の宗教が存在していて、法秩序や科学や論理性より、社会常識が優先されるようなことはいくらでもある。

多くの人がこの点に気づかず、無意識のうちに社会常識の信者になっているのだ。

「かのように」が発動しても、知らずに受け流すか、そんなことはごく当たり前のことだとなにも考えずに割り切っている。

もし違和感をおぼえても、ほとんどの人は、それが社会常識である以上、黙殺せざるを得ない。

ちなみにぼくも、あの犯人の死刑の是非については、そりゃそうだろう、くらいにしかおもっていない。

殺されたひとりひとりに、人生があった。

一日一日をつましく、社会のために生きていた人々を、おもい込みによって殺したことに対する責任は、もちろんとってもらわねば、しめしがつかないだろう。

それは、心神耗弱とか、そういったことで減免される種類の問題ではない、という立場だ。

しかしそれはやはり、法律的に考えれば、おかしいといわざるをえないだろう。

ぼくが言いたいのは、この件の是非ではない。

あの京アニ火災事件の判決は、100年以上も前に森鴎外のいったところの「かのように」の再現にほかならないということである。

おそらくどれほど時代が進化して、科学や法律がいま以上に合理化され、AIが人間の知性を凌駕したとしても、人間から「かのように」はなくならないはずだ。

いまわれわれは、この科学社会の最先端にあってなお、「かのように」のお手本のような判決と、社会の対応を目の当たりにしている。

ぼく自身も「かのように」考えることからは抜け出せそうにない。

つまりそれは、犯人は統合失調症だったかもしれないが、責任能力はあった「かのように」、みんなでそう信じようではないか、という宗教なのである。

松本人志の件における「かのように」

松本人志の件においては、松本人志サイドは性交などはなかった「かのように」したかったのだろう。

社会的に、松本人志には「あんなにおもしろく、必要とされてるのだから、多少の逸脱行為くらい許してやろう」というようなおもい込み(常識)が形成されていた。

すくなくとも数年前まではこの常識が世間に通用していたわけで、そこを利用したい思惑が感じ取れる。

奔放さをウリにした男なのだから、ほんとうは社会倫理に逸脱した性行為くらいあるだろう、とみんなおもっていたけど、社会全体でなかった「かのように」ふるまってくれる、というわけだ。

しかしもうとっくにはしごは外れていたのである。

時代が「かのように」のはしごを外す

たとえば敗戦によって戦後、天皇は人間宣言をし、国民のだれもが「天皇は神じゃない」と言えるようになった。

ほんの数年前まで、天皇は神ではない、というホンネをいうと危険思想だと取り締まられていたのに、もうだれも、「かのように」考える必要はなくなったわけだ。

時代というのは社会に根付いていた常識を、あっという間に非常識にしてしまう。

われわれはひとりでは「かのように」を覆すことができないが、時代という濁流はあっさりと「かのように」のはしごを外してしまうのである。

しかし昭和天皇は賢帝だったので、最終的には国体は護持され、天皇制は軟着陸した。

もし昭和天皇が軍事独裁体制に安易に乗っかって勇ましいことをいい、じぶんの立場に執着し、国民の熱狂に気分をよくするような暗君だったら、天皇制は廃止されていたことだろう。

では、松本人志は賢帝だったのか、暗君だったのか。

これはお笑いの能力が高い、低いの話ではなく、もっといえばオンナ遊びの是非ということも話のオマケみたいなものだ。

この件は人間が権力を手にしたときの、権力のつかい方の問題なのである。

「かのように」のはしごがはずれると、その人間は丸裸の本性によって、社会の審判を受けることになる。

この点は、人それぞれどのような局面で権力を持つにあたっても、重々意識せねばならぬことだとおもう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました