黒澤明の代表作として知られる『生きる』は、ドイツの古典として知られるファウスト伝説が下地になっていることで、世界的に普遍性を帯びたのではないかという話をしたい。
といっても、どうもじぶんでも取っ掛かりがつかめないので、とりあえずあらすじを書きながら、すこしずつおもうところを述べてみようとおもう。
この物語は、これまで無気力に生きてきた市役所の課長、渡辺勘治が、余命いくばくもない末期ガンであることを知ってしまったことで、生きる意味を探し求めるという話である。
享楽にふけろうとも答えはなく、じぶんにはない快活さを持つ若い女に執着しても、生きがいはみつからない。
しかしその若い女が生きるヒントを教えてくれたおかげで、かれは生きがいを見出し、生まれ変わったように働き始めたのだ。
といっても、市役所では渡辺だけが無気力なのではない。
お役所仕事というのは、個人が生半可に志を抱いたところで、ぺしゃんこに押しつぶされるようにできている。
お役所という組織やシステムが、職員を無気力に誘い込んでいるわけだ。
社会のためになるかどうかではなく、全体的になんとなく働いたフリができるように取り成し、めいめいじぶんの立場が脅かされないことだけを大事にする組織なのである。
渡辺の死後、晩年の渡辺が市民のために働く生きざまをみた同僚たちは心を打たれ、葬式の席でかれを称賛し、じぶんたちもかれのようにありたいと叫んだのだが、結局仕事に戻ればやはりみな無気力な日々を送るのであった。
ファウスト伝説との共通点
渡辺に堕落の道を教える、善良なるメフィストフェレス
じぶんが胃がんで余命いくばくもないことを悟って絶望し、浮世の享楽にふけることでこの苦しみから逃れられるのではないかと悩み、もはやまともに飲めもしないのに居酒屋にたたずむ渡辺の前に、ある小説家があらわれる。
渡辺は貯金から5万円を切り崩していた。
いまの価値でいえば100万円といったところか。
しかし渡辺はこれまでの人生で遊びらしい遊びをしておらず、どうしていいかわからないのだ。
小説家は、遊び方を知らぬ渡辺のために、みずからメフィストフェレスになろうではないかといって、さまざまな遊興に連れまわした。
メフィストフェレスは、ファウスト伝説に登場する悪魔である。
以下、ごくカンタンにファウストの骨子を述べる。
老ファウスト博士は人生を楽しみつくしたいと望み、悪魔メフィストフェレスはかれの死後の魂と引き換えにその望みをかなえた。
若返ったファウスト博士は現実世界と幻想世界を往復する形で人生を謳歌するのだが、この中でグレートヒェンという女性と恋仲になる。
結果的にふたりの別れは悲劇的なものとなり、グレートヒェンは精神的にズタズタになって、ただ心に信仰のみを抱いて死ぬ。
ファウストはグレートヒェンと別れたのち、神聖ローマ皇帝に取り入って国家再建に尽力することとなる。
そして最後には海の大干拓事業に取り組むのだが、過ちを犯して盲目にされてしまう。
メフィストフェレスはそのときが来たと、悪魔たちにファウストの墓穴を掘らせたのだが、ファウストはこの音を干拓事業が進んでいるものとおもい、理想の国家の建設に胸を躍らせながら、死ぬ。
メフィストフェレスはファウストの魂を奪おうとするが、グレートヒェンの祈りが聖母に届いたことで、天使が舞い降り、ファウストの魂はメフィストフェレスに奪われることなく、救済されたのである。
……と、もちろんこれではあまりにも粗末なあらすじなのだが、今回はファウストの解説をする場ではないので、気になる方はめいめい調べていただきたい。
いずれにせよ、『生きる』の中盤までは、ファウスト伝説がほとんど作品の土台として作用している。
小説家の男は、末期がんの渡辺に同情し、遊興を教えて心を慰めてやろうとする、いわば善良なるメフィストフェレスであった。
渡辺の魂を救済するグレートヒェン
さて、メフィストフェレスを気取る小説家は渡辺をさまざまな遊興に連れまわした。
渡辺はそれらの遊びを決して楽しまなかったわけではないが、どんな享楽もかれの死に向かう苦しみを緩和させることはなかった。
そんな中、思い悩む渡辺の前にあらわれたのが、はつらつと生きる若い女性、小田切とよである。
彼女は市役所の部下だったのだが、職場の空気が合わないといって辞職届を出すところで、ちょうど上司である渡辺を探していた。
市役所をやめて、玩具製造工場の女工になるという小田切のあかるさに、渡辺は惹かれる。
渡辺は小田切にいろんなものをプレゼントし、ご馳走し、付きまとうようになった。
小田切は最初はその厚意を喜んでいたものの、次第にそのしつこさに辟易し、あるとき飲食店で一緒にいるときにとうとう、こんなことはおかしい、気味がわるい、老いらくの恋はごめんだ、どうしてこんなことをするんだ、と渡辺を問い詰めた。
渡辺はうろたえるが、なぜ小田切に付きまとっているのか、じぶんにも理由がよくわかっていないのである。
もちろん性的な意味で彼女につきまったのではない。
じぶんが胃がんで、死期が迫っている中、彼女の自由ではつらつとした生き方がうらやましかったのだ。
渡辺は小田切にとつとつとじぶんの事情を語ってから、どうすれば君のように生きられるのだろうかと問いかけた。
小田切はじぶんが工場でつくったオモチャをみせて、なにかをつくってみれば生きがいになるのではないかと諭した。
渡辺はしばらく考えて、じぶんにもできることがあると気づいたとたん、大喜びで店の階段をかけおりるのだった。
その後かれは、市民からかねて陳情を受けていた小さな公園の建設に着手し始める。
役所や、政治家や、ヤクザなどの妨害にも負けず、かれは命をかけて諸方面に談判し、公園を建設し終えた。
そして、できあがった公園のブランコに揺られながら息を引き取るのである。
部下だった小田切は、さながらメフィストフェレスに奪われかけたファウストの魂を救済したグレートヒェンということになるだろう。
接着剤としてのファウスト
日本の公務員を淡々と描くこの作品は、もしファウスト伝説を組み込まなかったら、少々退屈で教訓めいた佳作にとどまっていたようにおもえる。
それに、海外であれほどの評価を受けただろうか、疑問だ。
『生きる』におけるファウスト伝説は、単なる日和見の公務員の再生の物語になりそうなところを、世界的に普遍性のある物語として成立させるための接着剤になっていた、とぼくはおもう。
しかし断っておくが、あの映画における登場人物たちはあくまでファウストごっこをしているのである。
ファウストを越えて
小説家がすでに宣言しているように、じぶんはメフィストフェレスを演じようといい、結果的に渡辺は老ファウストを演じることになる。
ところがこの世界では、小説家は悪魔ではないし、渡辺の死後の魂を得ることはできない。
渡辺が若返ってもう一度人生を謳歌することだってできないのだ。
だから、グレートヒェンとして描かれる小田切は、渡辺には恋をしない。
それどころか拒絶して、老いらくの恋はごめんだ、とまでいってしまう。
渡辺は、ファウストとちがって、逃れられぬ死の足音の中で、じぶんの生きる意味を見いださねばならなかったのである。
しかし、小田切から生きるヒントをもらった渡辺は、生きる意味を見出した。
渡辺は下水のたまり場になっていた空き地を公園にし、社会の礎として死のうと決意する。
それはファウストが干拓事業をはじめたことに似ているが、そうではない。
渡辺は理想の国家建設というような大それたことではなく、ただ公務員として、最後に市民のためになろうとしたのである。
渡辺はファウストではない。ファウストのようには若返れない。
しかし、生まれ変わることができた。
その瞬間、『生きる』という作品はファウストから飛び出すのである。
だから、それ以降、劇中には小説家も小田切も現れることはない。
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